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御坊市名誉市民

 本市は、社会の進歩、文化の興隆に功績のあった市民又は市に縁故の深い方で、郷土の誇りとなる方に対して、名誉市民の称号を贈りその栄誉を称えています。
 最初の名誉市民としては、市制施行50周年の記念すべき年に、フレッド 勇 和田氏が顕彰されています。

(故 フレッド 勇 和田氏の写真)

名誉市民第1号、故 フレッド 勇 和田氏の表彰式

表彰式の様子1枚目

表彰式の様子2枚目

市長より表彰状を受ける和田氏の長女(真中の方)
和田氏の娘さん2人は、アメリカから来日されました。

表彰式の様子3枚目

市長より銀杯を受ける和田氏の次女

表彰式の様子4枚目

謝辞を述べる和田氏の長女

レリーフ序幕式の様子

和田氏のレリーフ序幕式
(レリーフを眺める和田氏の長女)

レリーフ画像

和田氏の功績を称えたレリーフ

御坊市名誉市民 和田 勇氏(米国名=フレッド・イサム・ワダ)の紹介

 最初の名誉市民に選ばれたフレッド 勇 和田氏ですが、この方の活躍がなければ、昭和39年には東京オリンピックが開催されていなかっただろうと言われているくらいの偉大な活躍をされた日系2世の方です。この方が御坊市やこの地方と深い関わりを持っており、また幼少のころ何年か御坊市で暮らし、今の名田小学校に通っていたことを知っている人は少ないと思います。
 和田氏の父、和田善兵衛氏は、御坊市名田町出身で若くしてカナダに渡り、その後アメリカに移住、そこで由良町戸津井出身の川端玉枝さんと結婚し、生まれた長男が、フレッド 勇氏です。
 和田氏が、幼少のころ家の生活は苦しく、4歳の時2人の妹と共に日本の両親の実家に預けられ、9歳になるまでの5年間父方の御坊市(名田町祓井戸)や母方の由良町(戸津井)で暮らしたそうです。
 9歳の時に米国に戻りましたが、その後も12歳の時からは、シアトル郊外の農園に住み込み雑役夫をしながら学校に通う等苦労しています。
 17歳の時から農作物の小売チェーン店で働き始めた和田氏は、仕事熱心で1年で店長に抜擢されました。店長として2年間の修業を積んだ後、20歳でオークランド市内で青果店を開業、品揃えと陳列に工夫を凝らした店は大いに繁盛したそうです。
 26歳の時、美浜町出身の田端正子さんと結婚、その後も店は繁盛し、昭和16年には、3軒の店と25人の従業員を雇用し、日系食料品店の協同組合理事長にもなっていましたが、太平洋戦争勃発によって日系人は、太平洋沿岸州から強制追放となり、和田氏ら130人の日系人はユタ州に集団移住してここで共同農園を営み終戦まで苦労することになりました。
 戦後夫妻は、ロサンゼルスに移住して青果業で再出発し、スーパー経営で成功を収めました。そのころ、全米水泳選手権に参加した日本選手団の宿泊先に自宅を提供、食事から送迎、練習プールの手配まで自らする献身ぶりを見せ、選手たちを大変感激させました。
 終戦後まだ間のないその当時(昭和24年)、日本はまだ国際社会に復帰できておらず、前年に開かれたオリンピックにも参加できませんでした。
 そのころの日本水泳選手のレベルは世界最高で、オリンピックで優勝した選手よりも良い記録をもつ選手が多くいましたが、国際社会では、日本はまだ認められた状況ではないため世界の桧舞台で活躍できずにいました。
 そんな状況の中で、いろいろ苦労して日本選手団が、アメリカで行われた全米水泳選手権に参加してきたのです。まだ戦後すぐのことで、反日感情が強く、安心して泊れる宿がなく困っているところへ和田氏が手を差し伸べてくれたのです。
 おかげで日本選手は、相次いで世界記録を更新する大活躍です。翌日の現地新聞には、「フライング・フィッシュ・オブ・フジヤマ!」(フジヤマのトビウオ)と賞賛されました。このことを一番喜んだのは、日本人よりアメリカで暮らしていた和田氏ら日系人の人達です。それまで「ジャップ」と呼ばれ見下げられていたのが、この出来事を境に「ジャパニーズ」になり、日系人は胸を張って街を歩けるようになったと言われています。
 その後も和田氏は、日本からやって来る各種競技選手団の面倒を献身的に見続けました。そういうこともあって、昭和39年に開催されるオリンピックに東京が立候補した時に、日系人で唯一東京オリンピック準備委員会委員に委嘱されました。
 その時、東京以外にも、オリンピック候補地には、アメリカのデトロイト、オーストリアのウィーン、ベルギーのブリュッセル等が名乗りを挙げており、まだ第二次世界大戦後あまり経過していないこの時期では、日本への反発は強く、東京よりデトロイト、ウィーンが有利と言われていました。
 しかし、事前の予想を覆し、IOC総会で東京が2位以下を大きく引き離して過半数を獲得できたのは、日本への反発が少なかった中南米諸国10カ国を和田氏夫妻が1カ月以上も家業を放棄し、手土産等も私費負担するなどして各国を歴訪、東京オリンピック開催への支持を取り付けてくれたからです。
 この和田氏の我が身を省みず他人のために全力を尽くす働きがなければ、昭和39年の東京オリンピック開催はなかっただろうし、その結果日本の歴史が今とは違っていたかもしれません。
 例えばオリンピックを起爆剤として始まった高度経済成長も、新幹線の開通ももっと後のことになっていたかもしれないのです。それくらい和田氏の果たした役割は大きく、敗戦後の日本の復興を早め、国際社会への仲間入りに果たした功績は大きいと言えるでしょう。
 和田氏は、東京オリンピック誘致だけでなく、東京の次に開催されたメキシコオリンピックの誘致活動にも、東京での開催を最初に支持してくれたメキシコへの恩返しにと活躍されており、メキシコのロペス大統領から礼状と記念品が贈られています。その後、地元のロサンゼルスオリンピック誘致や札幌冬季オリンピック誘致にも活躍されています。
 晩年は、福祉事業に力を注がれ、日系の高齢者施設群を運営するKeiroの生みの親ともいわれ、日系社会の高齢者のために、看護病院や老人ホームを設立して総合的看護施設網の整備に尽力されており、地元ロサンゼルスではこれらの功績が広く知れ渡っています。日本と日系社会のみならず米国やメキシコのためにも活躍された国際人でした。昭和39年勲四等瑞宝章を、平成元年には勲三等瑞宝章を受章したほか、昭和59年には吉川英治文化賞と和歌山県国際文化功労賞を受賞されています。
 後年和田氏は、幼少の頃この御坊・日高地方で過ごし体験したことが、その後の人生観に大きな影響を与えたと語られています。
 このような和田氏を末長く名誉市民として称えていくと共に郷土の誇りとしていきたいと思います。

和田氏略歴

明治40年:アメリカ合衆国ワシントン州に生まれる
明治44年:日本の祖父母に預けられる(帰国まで名田と戸津井の祖父母のもとで暮らす)
大正5年:アメリカへ戻る
昭和2年:独立して自分の青果店を持つ
昭和8年:美浜町出身の田端正子さんと結婚
昭和16年:戦争のためユタ州へ集団移住する
昭和24年:水泳日本選手団を自宅に宿泊させ世話をする
昭和34年:東京オリンピック誘致のため夫妻で中南米諸国を回る
昭和36年:日系社会福祉財団の運営に携わり始める
昭和39年:東京オリンピック開会式に招待される
昭和39年:勲四等瑞宝章が贈られる
昭和44年:ロス港の港湾委員会委員長に任命される
昭和59年:吉川英治文化賞が贈られる
昭和59年:和歌山県国際文化功労賞が贈られる
昭和60年:「リーダーズ ダイジェスト」10月号でその業績が紹介される
平成元年:勲三等瑞宝章が贈られる
平成2年:「祖国へ、熱き心を」高杉良著(世界文化社)で取り上げられる
平成13年:93歳にて逝去
平成16年:御坊市名誉市民(第1号)の称号が贈られる

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