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御坊ゆかりの先人たち 田淵 豊吉

哲人政治家

田淵 豊吉

 田淵豊吉は、明治15年(1882)2月23日に御坊市新町の古い酒造りの家「いせ屋」田淵善兵衛の4男に生まれました。小学校の頃から勉強が好きで、昼は学校で勉強し、夜も小学校の校長である薗和四郎先生の家に出かけて、英語と漢文を学びました。小さい時から何事もいったん心に決めたら最後までやり通さなくてはならないという意志の強い子どもでした。このようにやる気のある子どもであったので、校長先生も熱心に指導されました。
 小学校を卒業するとすぐに県立和歌山中学校に入学しましたが、健康を害してまもなく退学し、少しの間休んでやっと元気になったので、今度は県立田辺中学校に入学しました。
 病気のため休学して再入学したため、クラスの中では年長者であり、どことなく大人びており、そのうえすべての学科は優秀で、特に英語はクラスの中でもずば抜けて良くできたので、「オトウ(お父)」と呼んで、クラスだけでなく上級生からも下級生からも親しまれるようになりました。
 英語の勉強の仕方は、便所の中に辞書を1冊置いて、便所に行く度に1分2分の時間を利用して、単語をひとつひとつ暗記し、1ページ暗記すると1枚破って捨てるという方法で、1年足らずのうちに1冊の辞書を覚えてしまいました。
 勉強に疲れてくるとよく写生に出かけました。豊吉の描く絵は扇が浜の松の木でした。毎日毎日同じ松の木を描くので、通りかかった中学生が、「おい、またオトウが松の木を描いている」といってはやしあうようになったが、豊吉は一向にかまわず同じ松の木を自分が気に入るまで描き続けました。全校生徒がその熱心さに「われわれはとてもオトウのまねができない」と感心しました。
 その頃から、1人で生活したいと考えた豊吉は、家を借りて自分でご飯を炊いたり洗濯をしながら勉強するようになりました。うまいものを食べなくては天下を治める気力が起こらないといって、よく牛肉を買いに行きました。
 中学校4年生の時、田辺中学校を退学してすぐに東京に行き、早稲田大学を受験し見事に合格しました。
 早稲田大学には、永井柳太郎、中野正剛という東京都下の学生弁論界を支配している学生がいました。豊吉もこの連中に負けないように頑張ろうと、戸塚街道(今の横浜市)の松並木に上って演説のけいこを続けました。このことが戸塚村民の評判になり、まもなく行われた戸塚村(現横浜市戸塚区)村会議員選挙で最高点で当選しました。これが中央政界入りのきっかけとなったのです。
 明治41年(1908)早稲田大学を卒業し、42年から大正4年(1915)までアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに留学して政治経済と哲学を勉強しました。
 豊吉が和歌山県選挙区から衆議院議員に初めて当選したのは、大正9年(1920)5月の総選挙であり、満38歳の時でした。以来、5回当選し、20年近い政治生活の間、ついにいずれの政党にも属さず、孤軍奮闘し、ひたすら理想とする政治を追求しました。豊吉は、権力に屈せず、常に国のため国民のためにと活躍した哲人政治家でした。女性の参政権、弱者の公費救済、労働条件の改善などを基本政策として議会演説に政治生命をかけました。先見の明があり、いつも50年先を見つめていました。第2次世界大戦に突入する時は、「この戦争は勝てん、やってはいかん!」と忠告しました。また、かざることのない、ありのままにふるまう言動から、俗に田淵仙人といわれています。
 御坊市とその周辺での豊吉は、当時の地域住民の大多数から、信頼され親しまれました。選挙が近づくと、自分の稼業をほうり出して走りまわり、自分たちが資本を出し合ってまで豊吉を衆議院へ送りこみました。
 ある時、豊吉を御坊町長に担ぎ出そうとしましたが、「お前、鯨が泉水で泳げるか」といって断ったというエピソードも残されています。自分の使命は、あくまでも国を動かすことであるとの強い信念をもっていたからです。
 小さい頃から勉強が好きで自立心の強かった哲人政治家田淵豊吉は、昭和18年1月15日(1943)郷里である御坊市新町で病により61歳の生涯を閉じました

大隈重信(中央)と田淵豊吉(左端)

大隈重信(中央)と田淵豊吉(左端)

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