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御坊ゆかりの先人たち 山東 誠三郎

バンカラ先生

山東 誠三郎

 

 明治の終り頃から大正にかけて「御坊三人組」と呼ばれ、東京の大学に入り、活躍する3人がいました。
 東京帝国大学(現東京大学)法科に学んだ田端幸三郎、早稲田大学政治科に進んだ田淵豊吉、そして山東誠三郎でした。
 誠三郎は明治21年(1888)8月生まれ、父重成が日高郡役所(現日高総合庁舎)に勤務した関係から、御坊人となって20年余りを御坊の町で過ごしました。
少年期、日高川縁の釣遊びや、道成寺詣で、浜の瀬での砂遊びを楽しみました。
 明治41年(1908)春、関西学院中等部を卒業した誠三郎は、同郷の先輩鎌田栄吉氏(慶応義塾大学塾長)を慕い、慶応義塾大学理財科に入ることに決定しましたが、入学前約半年余、松原小学校代用教員を勤めました。
 個性のきらめき強い、バンカラ(注釈1)先生は、生徒を叱りつける時などは恐ろしいほど猛烈でした。そのくせ生徒は誠三郎に懐き、暇さえあれば子犬のように慕いまつわりました。誠三郎が一瞬でも、運動場へ姿を現そうものなら、「山東先生!」と呼びかけながら、あっちの隅、こっちの隅から走り寄って来ました。日曜日も誠三郎を取り巻きながら散歩する児童の一団が必ず見受けられました。
 慶応義塾大学に入ってから誠三郎は学問に励み、めきめき頭角を現しました。同時に飾らない率直な性格が、先輩からも推称(注釈2)されました。
 大正2年(1913)9月、紀州徳川家の世継ぎ頼貞侯がイギリス留学の際、ともに行く青年を求め、その春優秀な成績で慶応義塾大学を卒業した誠三郎を抜擢しました。語学をマスターする為、頼貞侯はケンブリッジ大学へ、誠三郎はロンドン大学に、分かれて入り、政治経済学を研究しましたが、戦争が激しくなり大正4年(1915)の冬に帰国しました。
 帰国後誠三郎は、人柄や考え・才能などを認められて、徳川家の家職となり、財務部に勤めることになりました。
 大正8年(1919)10月、誠三郎はアメリカ・ワシントンで開催された、パリ講和会議の万国規約に基づく、第1回国際労働会議に同行し、全ての事務を任されました。三年間のイギリス留学中に磨きをかけ熟練しきった語学で、日本の主張を貫き通す為、各国代表と話を進めました。誠三郎がいかに活躍したかはいうまでもありません。
 その会議に成功し、帰国した誠三郎は名声を挙げ、更に大正10年(1921)海外渡航することとなりました。かくて三度の海外渡航に誠三郎のバンカラはどこかへ消え去って、すっかり英国風の紳士となりました。しかし、人に対する親切さは、昔と少しも変わりませんでした。
 頼倫(らいりん)候が薨去(こうきょ)(注釈3)され、頼貞候の世となってからは益々信頼を厚くすることとなりました。そして大正11年(1922)徳川家財務部長となり、徳川家の事業を背負って立つこととなりました。
 山東誠三郎について恩師薗和四郎氏(明治18年より30年の長い間、御坊小学校に教鞭を執って、その地の英才教育に携わった)は、こう語ったといいます。
「小学時代から、どこかしら普通の児童と変わっていましたね。私達はよくあの子は今に偉くなるだろうと話し合ったものです。それに、山東君ときたら、飛びぬけたわんぱくものでしてね、受け持ちの教師はずいぶんてこずりましたよ。覇気満々(注釈4)、気骨稜々(注釈5)といった風で、何か(学)級の為に計る(注釈6)ような場合などは教師だろうが、上級生だろうがまるで眼中にない、(同)級生を統率してぐんぐん所信を断行していくという調子だったですからね。ところがああいう性格の持ち主ほど、かえって旧誼心(きゅうぎしん)(注釈7)とか友情とかが厚いようですね。(慶応)義塾へ通っている頃も、イギリス留学中も我々のような隠遁者(注釈8)へ絶えず安否を問うてくれて、彼ら(御坊三人組)の消息は同窓会でいつも話題の中心になる。今日の山東君は三浦男爵とともに徳川家を背負って立つ偉い身分になったが、小学校時代の旧友達が上京の度毎に山東君に世話になって、帰って来ると自分の処へ皆喜んで報告に来ますよ。」(大正14年3月某日)

徳川頼貞卿(中央)とともに1913年ロンドンにて後列右端より2人目

注釈1: 身なり、言葉、動作などが荒っぽい
注釈2:ほめたたえること
注釈3: 死ぬこと
注釈4:積極的に物事に立ち向かおうとする意気
注釈5: たやすく人に従わない
注釈6:計画する
注釈7: 古いなじみ・昔のよしみ
注釈8: 退職し、家にこもっている

「頼貞随想」1956年・河出書房より転載

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