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御坊の歴史 年表(古代~近世)

旧石器時代

  • 塩屋から名田にかけた海岸段丘に立地する壁川崎(かべござき)・尾ノ崎遺跡などからナイフ型石器・スクレイパー・細石刃などが出土

縄文時代

  • 天田から早期の石槍が単独で出土
  • 小松原2・上野口・尾ノ崎・壁川崎・馬地(うまじ)・中村2遺跡から後・晩期の土器や石器が出土

弥生時代

 
前期 堅田遺跡で三重の環濠を巡らした県下最古段階の前期集落(国内最古とされる青銅器のヤリガンナ鋳型が出土)
小松原2・中村・中村2・尾ノ崎遺跡などから前期の遺物が出土
中期 小松原2・中村2遺跡などで中期前半の遺物が出土
東郷・小松原2・富安1遺跡で中期中頃以降集落がつくられる。
後期 亀山遺跡で中期末頃から後期中頃まで高地性集落が営まれる。
中村・中村2遺跡では、中期末から後期前半頃まで平野部に集落があり、その後古墳時代前期まで丘陵上に集落が継続
小松原(1)・亀山(3)・道成寺近く(1)で銅鐸が出土
後期後半以降、日高川以南の海岸沿いで製塩が行われるようになる。

 

古墳時代

 
前期 東郷遺跡では大溝の掘削など大規模な開発が行われる。
尾ノ崎遺跡で方形周溝墓群が造営される
中期 岩内3号墳(円墳)が造営される。鏡・勾玉・管玉・櫛・巴形銅器・釧剣・刀・槍・鏃・鎌・斧・針が出土。
阪東(ばんどう)丘1号墳・2号墳、鳳生寺山古墳群が造営される。
阪東丘1・2号墳では鏡・玉類・刀剣類などが出土
後期 天田古墳群、亀山古墳・祓井戸古墳群・広畑古墳などが造営される。
天田28号墳では、当地方唯一の前方後円墳で竪穴式石室から馬具や武器のほか紀中・紀南地方では例が少ない埴輪が出土

 

飛鳥時代

 
西暦 年号 事項
658年   有間皇子、殺害される。
7世紀後半 この頃有間皇子の墓との説がある岩内1号墳が造営される。
この頃中皇命(なかつすめらみこと)が紀伊の湯へ行幸。この時、名田で
「我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ」
という歌を詠む。(『万葉集』巻一)
701年 大宝元年 文武天皇・持続太上天皇一行が牟婁の湯に行幸
この頃道成寺が建立される。寺の創建については、当地に育った海士(あま)の娘宮子が、一筋の黒髪の縁により藤原不比等の養女、文武天皇の夫人となりこの地に道成寺が建てられた由来が伝承されている。
703年 大宝 3年 紀伊国那賀郡と名草郡に麻布の調を出すことを止めて絹糸を献上させた。ただし、有田・日高・牟婁郡には布の代りに銀を献上させた。(『続日本記』)

 

奈良時代

 

 
西暦 年号 事項
 
  • 堅田遺跡で日高郡衙に関連する遺構を検出(奈良時代前半)
  • 小松原2遺跡、岩内2遺跡、中村2遺跡などで奈良時代の建物遺構を検出
754年 天平勝宝6年 聖武天皇の皇太后 宮子が没す。
761年 天平宝字5年 10月 日高郡財部郷に住む戸主の矢田部益占が調として塩三斗を出す。
(平城宮跡から出土した木簡による)
775年 宝亀 6年 この頃、日高川の河口に住み、漁業を営んでいた紀朝臣萬侶(きのあそんまろ)が有田郡吉備郷の紀臣馬養(うまかい)と海部郡浜中郷の中臣連祖父麻呂(おじまろ)の二人を年価で雇い入れて、昼夜の別なく捕漁に使役する。(『日本霊異記』)

 

平安時代

 
西暦 年号 事項
1081年 永保元年 藤原為房(ためふさ)は熊野参詣のため9月21日に京を出発。
28日 鹿背(ししがせ)山中宿 29日宿塩屋上野牧預宅
30日 岩代宿…… 10月5日参拝(『為房卿記』)
1109年 天仁 2年 藤原宗忠が熊野参詣、途中、連同持(善童子)・塩屋王子に参拝。(『中右記』)
1130年 大治 5年 上野の御宿、右衛門督の宿所が焼失。(『長秋記』)

 

鎌倉時代

 
西暦 年号 事項
1200年 正治 2年 日高山田庄熊野村、熊野権現宮の「御祝」に同神社の由来を記す。
後鳥羽上皇が3度目の熊野御幸のおり、切目の宿で詠んだ和歌の中に、
「漁火(いさりび)の光にかはる煙かな灘の塩屋の夕暮の空」藤原家隆がある。
1201年 建仁元年 歌人藤原定家『後鳥羽院熊野御幸記(明月記)』10月10日の記事に「次又参王子田藤次(善童子)云云、次に又愛徳山王子、次にくあま王子、次に小松原御宿に寄る…(略)…河を渡りていわうち王子に参る」とあり、翌11日塩屋王子・上野王子・ツイ王子に順拝し切目に向っている。
1212年 建暦2年 後鳥羽院庁下文(『熊野速玉神社古文書古記録』)によると、薗・宝郷は日高郡に属し、その四至は「東限泉水際、南限甘田・亀石・富嶋、西限田井・船津・出井、北限蒼柱、九寸大際」とある。
1348年 正平 3年 この頃、湯川光春が亀山城を築いたと推定される。
1495年 明応 4年 宗祗連歌集「新撰菟玖波(つくば)集」を撰す。
「新撰菟玖波集」に政春の歌が出ている。
 「憂秋や老のなみだの友ならん、いとはれてこそ袖はぬれけり」源 政春
1528年 享禄元年 湯川直光は、細川勢に味方して河内に出陣したが、敗れて山科本願寺の証如上人に援けを乞うた。一説にこの戦いは天文元年(1532)摂津江口だったともいわれる。証如は大和・河内の門徒に命じ助勢させ、直光を無事亀山城へ送り帰したという。
1532年 天文元年 直光報恩のため吉原浦に道場を建立、本願寺に寄進し、次子信春を開山とした。信春は剃髪して唯可と称し、後に石山本額寺証如から「祐存」の法名を賜わり「吉原坊舎」の初代住職となった。この年を天文9年(1540年)とする説がある。
1562年 永禄 5年 3月 和泉久米田の戦いに湯川氏も加わり畠山軍を勝利させるが、5月三好軍の追撃を受け湯川直光、河内教興寺付近で戦死した。
この年、湯川直春が和歌山雑賀一族と誓詞を交わし、同盟関係を確認する。
1573年 天正元年 信長に追われた将軍義昭は、20人ばかりの家臣を従えて由良興国寺を訪ずれ、湯川氏や熊野衆に援けを求めた。
1576年 天正 4年 湯川直春は、木津川口の合戦に本願寺側が信長軍に勝利したことを祝い、本願寺関係者に書状を出す。(『三宝寺文書』)
1585年 天正13年 羽柴秀吉の紀州攻めにより、湯川直春は二百数十年来の亀山城と小松原館に自ら火を放って、熊野に退いた。
1586年 天正14年 直春、羽柴秀長の呼び出しに応じ、大和郡山に赴くも帰らず、一説に毒殺されたといわれ、その命日は7月16日と伝えられる。(『湯川記』ほか)直春は病死、秀長に召抱えられる等の説もある。(『南紀古士伝』ほか)
1595年 文禄 4年 鷺の森の有力な後援者であった佐竹伊賀守の尽力で薗・島両村の荒地に御堂が建立された。(現在の日高別院)

 

江戸時代

 
西暦 年号 事項
1619 元和 5年 徳川頼宣(家康の第10子 南龍公)8月13日入国する。初代藩主。
1615年
~1623年
元和年中 「薗家系図」に「日高廻船ノ始メヲ尋ヌレバ元和年中、当郡野島村留二郎と申す人、泉州左海(堺)ノ津より江戸航海ノ業ヲ開ク、是レ創起ニシテ大廻船卜唱フ」とある。
1629年 寛永 6年 若野井堰(いせき)は、平井正次(九左衛門)が設計し、藩が経営してこの年起工、同1632年に竣工した。これにより400筆余りの畑が水田となり、その結果石高が増え148石1斗6升9合の増分を検地帳に記している。
1631年 寛永 8年 徳川頼宣は、しばしば日高へ滞在するので、この年薗浦に御殿を建てた。その際御殿御用を勤める新町に対し「諸役赦免状」(小竹八幡社蔵)が出された。
1649年 慶安 2年 小松原村浪人寒川作次の子源太郎が広御殿(有田)に召され、鼓を打ち徳川頼宣に召し抱えられる(『南紀徳川史』『紀伊名所図会』ほか)
1667年 寛文 7年 1620年代に始めた大坂・江戸間の荷物運送の実態を見ると、御坊町17艘、薗浦29艘、名屋浦16艘計62艘の廻船数が記録されている。
1674年 延宝 2年 薗御殿が取り壊される。
1678年 延宝 6年 小竹八幡宮が元宮の地から新町の薗御殿跡へ遷宮(せんぐう)した。その祭りは「人を見たけりゃ薗祭り」とうたわれたほど賑わったという。
1689年 元禄 2年 熊野村と岩内、島両村の間に山論(さんろん)おこる。
1701年 元禄14年 薗、名屋に大火あり、源行寺全焼する。
1705年 宝永 2年 5代藩主吉宗が22歳のときに疱瘡(ほうそう)にかかり、熊野(いや)神社に平癒祈願したところ全治する。
1752年 宝暦 2年 日高郡では蝋燭(ろうそく)の原料として櫨(はぜ)の木62ヶ村で42,661本が栽培された。(『唐櫨植付大積帳』)
塩路沂風(きふう)が御坊村で生まれ(~1800)、俳句をよくする僧となった。その遺吟を収めた「爾時庵発句集」が1801年に発行された。
1756年 宝暦 6年 薗浦堀川屋八左造衛門船、2月5日品川出船遭難してエトロフ島に漂着する。(『あかね』14号)
1777年 安永 6年 日高廻船の艘数は57叟を数える。
1779年 安永 8年 10月1日夜、廻船住吉丸は、伊豆沖で遭難、11月11日中国福州に漂着、翌年10月長崎に帰る。
1788年 天明 8年 国学者塩路有嗣が藤井村で生まれた。(~1829)
医業を営みながら、本居大平の門に入り国学と和歌を学んだ。「古事記伝略解」3冊を編述。
1789年 寛政元年 6月 日高川大洪水、薗・名屋両浦の家屋敷、田畑多く流失。
1790年 寛政 2年 この年野口村の前田清右衛門が讃岐から甘蔗(かんしょ)苗をとりよせたところ、たちまち各地へひろまった。
1798年 寛政10年 林信幸が熊野詣りの道のことを「浦のはまゆふ」と題して書き留めている。この道中記に御坊市内の上富安から楠井までの道筋と風景がよく描写されている。
1800年 寛政12年 下富安の久蔵が10代藩主治宝(はるとみ)に孝子(こうし)として表彰され、その碑が大渓寺(だいけいじ)に残る。
1803年 享和 3年 「日高郡在々造酒屋共造酒米高改帳」によると、天田組644石、江川組514石、入山組177石などと記される。
1810年 文化 7年 紀州俳壇に大きな地位を占めた松尾塊亭(かいてい)の撰による藤井連「月並句帖」が作られる。瀬戸周菓など藤井村には風雅の士が多かったことが知られる。
1811年 文化 8年 鐘巻村道成寺門前の茶屋が「行掛り足痛の旅人」を宿泊させたことで小松原村庄屋が茶屋に浪籍を働く。
1812年 文化 9年 道成寺門前茶屋が旅人を宿泊させていたのを、夜客引きに来ていた小松原の宿の者に知られ小松原から大勢で押しかけ大騒動となった。
1824年 文政 7年 10月23日夜、新町和泉屋喜太夫船「柳徳丸」伊豆沖で遭難。
1825年 文政 8年 3月 日高別院現本堂落成。
1831年 天保 2年 砂糖作人と製品の増加から新しい砂糖問屋(橋本屋太次兵衛)ができた。
1835年 天保 6年 塩屋王子前に、『紀伊続風土記』を編集した儒者仁井田好古(にいだこうこ)の撰文による石碑(塩屋王子祠前碑)が建立される。
1837年 天保 8年 薗浦の栗本新兵衛は、私費を投じて日高川沿岸の新田1町3反を開き、貧民救済にあたった。
1842年 天保13年 この頃、日高綛(かせ)仲間、藩より「御鑑符」を受け冥加上納銀の制度ができる。綛商の主なものに、島村塩路彦平、藤井村の瀬戸佐市、小池甚七などがいた。
1846年 弘化 3年 旱ばつ、日高川を雪駄(せった)ばきで渡れたという(『野口村誌稿』)
1849年 嘉永 2年 藤井村に生れ、円山派の画家、「道成寺宮子姫縁起」を描いた塩路鶴堂(かくどう)が没した。
1850年 嘉永 3年 薗浦和泉屋庄右衛門所持の廻船「天寿丸」江戸より帰航中伊豆沖で遭難。太平洋を漂流中米国の捕鯨船に救助され、乗組員13名がカムチャッカ・ハワイに滞留される。
1853年 嘉永 6年 日高郡で生ろうそく業仲間に加入しているもの16軒、そのうち御坊の「ろう屋」は、外河屋、志賀屋、堀河屋、岩国屋、和佐屋、大黒屋、和泉屋、松原屋などであった。
1854年 嘉永 7年 11月 大地震(安政地震)。御坊付近も津波による被害を受ける。
1858年 安政 5年 財部村の田口幸次郎襲名後新十郎が自宅の屋敷内に十数坪の学舎を建て師匠屋を始める。
藤井村の塩路源右衛門が農業のかたわら塵紙製造を営むようになった。
1860年 万延元年 三明寺(丸山村)の住職吟了、智玄父子が寺子屋を開いて明治4年(1871)ごろまで付近の農家の子弟を教えた。
1864年 元治元年 藤井村の塩路源兵衛がろうそくの芯紙を製造して御坊のろう屋へ供給した。